30歳を過ぎたころから、バックパック旅行に出るようになりました。初めは、小説に影響されて気分転換のつもりでしたが、旅の面白さにのめり込み、多いときは年に6回ほど海外に行くようになりました。
行先は近場の東南アジアのいわゆる発展途上国が中心でした。最初は、途上国なんて何もないだろうと思っていました。ところが、実際に行ってみて、日本とは全く違う暮らしに衝撃を受けたんです。
たとえば、家の屋根はバナナの葉で作られてて、壁なんか無いし、ヤシの実を燃料にしてご飯を炊くような生活。そんなに貧しい暮らしなのに、人々がいきいきとしているんです。みんな穏やかで明るくて。子供たちのキラキラした目から、幸せなのが伝わってきました。ゆっくり時が流れていて、心の余裕が感じられました。
途上国で暮らす幸せそうな人々を見てから、日本の生活に疑問を抱くようになりました。今の自分や日本人の暮らしって本当に幸せなのかな?って。例えば、通勤時間に往復で4時間もかける意味はなんだろう、とか。東南アジアなら一週間暮らせる金額が、日本だと一回の食事代で消えていくのを見て、お金の価値観とか労働の意味も考えるようになりました。
すぐにではありませんが、年金をもらえるようになったら自給自足的な暮らしをしようと決め、移住先を探し始めました。
田舎の中でも活気があると言われていた九州を中心に探したのですが、しっくり来るところはなかなか見つかりませんでした。移住者を温かく受け入れてくれる雰囲気が感じられなかったんです。
でも、どこかには自分を受け入れてくれる町があるんだろうと漠然と感じていました。いつか、そういう場所をきっと見つけられると半ば確信的に。
移住先を探し始めて5年ほど経った頃、長崎県主催の島暮らし体験ツアーという募集企画に採用され、3泊4日で長崎県の離島、小値賀島にやってきました。五島列島は知っていましたが、小値賀と聞いてもまずは「おぢか」と読むこともできませんでした。想像以上に穏やかで良いところだと思いましたね。やっぱり海が綺麗だし、静かだし、都会特有の臭いも音もなくて、すごく自由を感じました。
実は、島に暮らすという憧れは、小さい時からありました。でも、島に移住するのは諦めていたんです。島には当時、移住者がほとんどいないし、閉鎖的な印象があったので。ところが実際来てみたら、小値賀の人は大歓迎で受け入れてくれる雰囲気があったんです。何人もの人が「うちに飲みに来い」って誘ってくれるんですよ。
小値賀には、2年間農業を勉強しながら給料もいただける研修プログラムもあったので、条件として非常に魅力的でした。自給自足するにも、農業の技術は必要だからです。ただ残念なことに、研修生の年齢制限を超えていたので小値賀とは縁がなかったんだなと諦めるほかありませんでした。
島の人とうまい魚を食べ、お酒を飲みながらいろいろ話を聞いて、やっぱり良いところだなあと思いました。住み心地が良さそうだなと。でも、年齢はどうにもなりません。
帰宅して何日かして、町の方から電話がかかってきたんです。本気で移住するなら年齢制限を変更してくれると言ってくれたのです。
ちょうどその頃は、まちづくりの仕事がどんどん忙しくなり、精神的にも限界を感じていました。自分の限界と小値賀との出会いのタイミングが重なったので、思い切って移住することを決断しました。
仙台の家を引き払い、仙台空港から福岡に向かう飛行機の中で新しい人生のスタート。これから一生小値賀で暮らすんだと思ったら、涙が止まりませんでした。夢が叶った喜びなのか、サラリーマンをやめた感傷なのか、理由は自分でもよくわかりません。それだけ色々な想いを抱え、ついに2002年、移住しました。