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国境離島の歴史遺産

見島(山口県)壱岐島(長崎県)福江島(長崎県)佐渡島(新潟県)対馬(長崎県)種子島(鹿児島県)

国境の島々は日本本土と大陸の間に位置することから、太古の時代より大陸や東南アジア方面との海上交通の要衝であり、交易の拠点でした。古代から現代に至るまで多くのストーリーが生まれ、歴史の舞台となった離島に残る歴史遺産を訪ねてみましょう。

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壱岐島のカラカミ遺跡・原の辻遺跡

東アジアとの交流の歴史を物語る遺跡

「カラカミ遺跡」は壱岐のほぼ中央部にあり、弥生時代中期に形成された環濠集落跡です。土器やアワビおこし、つり針など鯨骨製の漁撈具(ぎょろうぐ)などが発見されたほか、交易を通じて国内に鉄器生産を担っていたことが分かっています。「原の辻遺跡」は、弥生時代から古墳時代まで栄えた環濠集落で、「魏志倭人伝」に記されている「一支国(いきこく)」の王都に特定された遺跡です。東アジアとの交流の歴史が分かる遺物が多数発見されています。国の特別史跡に指定。

対馬の砲台跡・小茂田浜元寇古戦場跡・上見坂堡塁

明治時代に日露戦争に備えて建造された上見坂堡塁

鬱蒼とした森の中に残る上見坂堡塁

入口はレンガづくりの上見坂堡塁跡

上見坂堡塁(かみざかほうるい)は明治34~35年(1901~1902)に厳原町内陸部に築造されたものです。火砲が4基据え付けられましたが、実戦では一度も発射されませんでした。現在、公園になっており、浅茅湾や霊峰・白嶽(しらたけ)、天候がよければ九州本土や韓国の山々などを望むことができます。このように、対馬は国境に近いことから、国防そして最前線基地として明治から昭和にかけて30カ所を超える砲台が建設されました。島内にはほかにも、姫神山砲台や豊砲台跡が残っています。

元寇の戦いの舞台となった古戦場に建つ神社

対馬の最前線で戦った人々が眠る小茂田浜神社

文永11年(1274)元寇の際、蒙古軍を迎え撃った戦場が小茂田と言われており、小茂田浜神社では戦死者である宗助国(そう・すけくに)と 部下の将兵が祀られています。毎年11月第2日曜には鎧武者を先頭にした「武者行列」が浜まで歩き、海に向かって武士大将が「エイエイ」と采配を振るえば太鼓と武士が「オーオー」と呼応します。この神社のすぐそばの浜辺が、元寇の古戦場跡になっています。

海岸一帯に集まる見島のジーコンボ古墳群

浜辺にずらりと並ぶ圧巻の古墳群

墓からは、帯金具、勾玉、和同開珎などが出土している

山口県萩市見島東南部、海岸一帯の小石の浜辺には200基近い石の墓が密集しています。それぞれの墓は積石塚で比較的大きな玄武岩を積んで作られており、7世紀後半~10世紀初めのものと推定されています。墓に埋葬されたのは島の住人ではなく、墓の数が多いことや出土した武器類、装身具類、銅銭、土器類などから、外国からの軍の侵入を防ぐためにこの島にきた中央の武人の集団であっただろうと考えられています。

種子島の鉄砲伝来の碑

鉄砲伝来の地・種子島

異国船が漂着した門倉岬(かどくらみさき)。現在は公園として整備されている

約100丁の火縄銃を展示する種子島開発総合センター(鉄砲館)

戦国時代の戦のあり方を一変させた火縄銃。天文12年(1543)に種子島に漂着した異国船に乗っていたポルトガル人から島主の種子島時尭(たねがしま・ときたか)が譲り受け、模作させたのが始まりです。模作を命じられた鍛冶屋の八板金兵衛(やいた・きんべえ)は銃底を塞ぐネジの仕組みに苦労し、娘をポルトガル人に嫁がせ製法を聞き出したという伝説も残されています。西之表市にある「種子島開発総合センター(鉄砲館)」には、八板金兵衛作の国産第1号火縄銃が展示されています。

 

詳細は下記にてご確認ください。

種子島開発総合センター(鉄砲館)

種子島の国史跡 広田遺跡

太平洋に面した砂丘に作られた集団墓地

骨が発見された場所に墓標が立ててある広田遺跡公園

詳しく学びたいなら隣接する広田遺跡ミュージアムへ

広田遺跡は、弥生時代前期〜古墳時代前期にかけて築かれた集団墓地の遺跡です。日本本土のような古墳や墳丘墓ではなく、海岸の砂丘の上に墓地が築かれています。発掘調査で出土した人骨を調べた結果、本土の弥生人に比べて低身長で抜歯や後頭部を扁平にするなど特異な習俗があること、また九州近海には生息しない南海産の貝を素材とした腕輪や首輪などの装飾具を身につけていたなど、これまで例のなかった独自の文化を持つ人々が暮らしていたことがわかりました。広田遺跡は国史跡に、出土品は国の重要文化財に指定されています。

 

詳細は下記にてご確認ください。

広田遺跡ミュージアム

佐渡島の佐渡金山跡・大立堅坑

佐渡金山近代化を支えた日本最古の西洋式竪坑

明治以降、採掘の中心となった大立竪坑はドイツ人技師らによって造られた

江戸時代初期に発見され、平成元年(1989)の閉山まで多くの金銀を産出した佐渡金山。江戸時代から手作業や人力で採掘作業を行っていましたが、明治10年(1877)に大立竪坑の完成により、近代化が進みました。各坑道から集められた鉱石は地下エレベーターで地上へ上げられ、粗砕場へ運ばれました。現在も櫓が残されているほか、周囲には複数の抗口が見られます。

五島列島・福江島の石田城蹴出門

外国の脅威に備え、日本で最後に築城された城

石田城は、江戸幕府最後に築かれた日本で最も新しい城

福江城とも呼ばれる石田城。五島藩の藩主、五島家第30代当主盛成の居城です。黒船の来航に備えるため幕府より築城を許可され、文久3年(1863)6月に完成しました。当時は城壁の三方を海に囲まれた海城でしたが、明治維新になり築城9年で解体。蹴出門は修復を重ねながら現存し、石橋や石垣も当時の面影があります。現在、本丸跡に五島高校、二の丸跡は五島観光歴史資料館や図書館が建っています。

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