離島の歴史を語る上ではずせないのが、落人や流人といった、日本史の表舞台を追われた人々がもたらした文化。平家の落人伝説や隠れキリシタンの悲話、流人となった貴族や知識人の物語などミステリアスな伝説は、独自に育まれた離島の伝統文化そのものでもあります。
Summery
宝島のキャプテン・キッドの財宝
キャプテン・キッドの財宝が眠る南の小島
吐噶喇列島の有人島では南端に位置する宝島。エメラルドグリーンの海と白い砂浜のコントラストが美しい島ですが、その名の通り、海賊キャプテン・キッドが財宝を隠したという伝説が残るロマン溢れる島です。キッドが残した地図が宝島の形に似ていることや、財宝を隠したと伝わる鍾乳洞が島のどこかにあるはずと、世界中から一攫千金を狙ったトレジャーハンターが訪れていました。残念なことにいまだ財宝は見つかっておりません。宝島は夢のある島です。
硫黄島の平家伝説と俊寛伝説
安徳天皇が生き延びた史跡が点在する島
硫黄島には、壇ノ浦の合戦で入水し崩御したといわれる安徳天皇が、入水せずに平資盛(たいらのすけもり)に警護され島に落ち延びたという伝説があります。天皇はのちに平資盛の娘を娶り、隆盛親王を授かり、66才でこの地で亡くなったとされています。硫黄島港近くには天皇が最初に居を構えた「黒木御所跡」が、集落の中央には晩年の皇居跡「熊野神社」、その近くには天皇と従臣たちの墓所…と、ゆかりの史跡が数多く残されています。
失意のうちに硫黄島で生涯を閉じた俊寛
治承元年(1177)、平家打倒を企てた罪で俊寛僧都(しゅんかんそうず)、藤原成経(ふじわらなりつね)、平康頼(たいらのやすより)が鬼界ヶ島(きかいがしま)へ流刑となりました。この鬼界ヶ島が現在の硫黄島だといわれています。のちに成経、康頼は赦され京へ戻りますが、俊寛だけが赦されず、ひとり島に取り残されました。その後、長浜川上流に粗末な庵を結び暮らしていましたが、2年後の治承3年(1179)に失意のうちに亡くなりました。硫黄島では俊寛の霊を弔うお盆行事「柱松(はしたまつ)」が行われるほか、「俊寛堂」、「俊寛の涙石」、「俊寛の投筆岩」など俊寛にまつわるスポットも数多くあります。
知識人の流刑の地・佐渡島
政界の権力争いに敗れた貴族や知識人の流刑地
奈良時代から中世にかけて流刑地として定められていた佐渡島です。一般的な罪人ではなく、時の天皇や将軍の怒りをかった貴族や文人などの知識人が島流しされてきました。代表的なところでは、奈良時代の歌人の穂積朝臣(ほづみのあそみ)や、承久の乱で敗れた順徳上皇(天皇)、日蓮聖人や能楽の大成者である世阿弥(ぜあみ)などが知られています。このような知識や教養のある人々が佐渡に文化を広め、独自の文化が育つきっかけになったともいわれています。
後鳥羽上皇を祀る隠岐神社のある隠岐諸島・海士町
ご配流になった後鳥羽上皇が残した遺産を訪ねて
隠岐諸島・島前のひとつ、海士町。万葉の時代から遠流の地として、政治犯とされた人々や貴族が都から流刑されてきました。隠岐に流された著名な人物には、鎌倉時代に権力闘争に敗れた後鳥羽上皇と後醍醐天皇、そして平安時代の歌人・小野篁(おののたかむら)などがいます。昭和14年(1939)、後鳥羽上皇を御祭神として隠岐神社が建立されたことから、島の人々に慕われていたことがうかがえます。また神社の前には海士町後鳥羽院資料館があり、隠岐神社の宝物を中心とする後鳥羽上皇にちなむ品々が陳列されています。上皇の残した遺産をめぐって歴史ロマンを感じてみてはいかがでしょうか。
流刑の島の歴史を知る八丈島
豊臣五大老・宇喜多秀家が流された流刑の島
江戸時代に罪人の流刑地とされていた江戸七島ですが、特に大きな八丈島には多くの罪人がやってきました。その最初の流人は、豊臣五大老の一人で備前岡山城主であった宇喜多秀家(うきたひでいえ)とその息子たちでした。関ケ原の戦いで西軍の主力として戦い、敗北した秀家は84歳で亡くなるまで、約50年間をこの島で過ごしました。現在、八丈島には宇喜多秀家墓が残されているほか、八丈島歴史民俗資料館では秀家や流人の歴史についての貴重な資料にふれることができます。
潜伏キリシタンの史跡のひとつ、五島列島・若松島のキリシタン洞窟
厳しい弾圧から逃れ耐えたキリシタンの史跡
幕末から明治初期、キリシタン弾圧が起こると、信者たちは迫害を逃れるために船でしか行くことができない洞窟へ逃げました。しかし、朝食を炊く煙を漁師に見られ役人に通報され捕らえられたといいます。信仰を守り通した先人を偲び、洞窟の入口に高さ4mの十字架と3.6mのキリスト像が建てられています。久賀島では捕らえられた信者が畳12枚分の狭い牢に200人程が押し込まれ迫害された歴史があり、牢屋の窄(さこ)などキリシタン史跡が数多く残っています。