長崎県の新上五島で地域おこし協力隊として活動する竹内さん。幼い頃から抱いた新聞記者になるという夢を叶えた竹内さんは、なぜ仕事を変えて移住することにしたのか。地域の中で実現したいこととは。お話を伺いました。
見えない部分を伝える新聞記者の夢
奈良県橿原市で生まれました。元気な性格で、何でもやりたがる子どもでしたね。人を笑かすのも好きでした。ただ、意外と真面目な一面もあって、自分のことは普通で面白くない人間だと思っていました。
親は新聞をよく読んでいて、興味がある記事を私にも見せてくれました。世界では自分の知らないことがあって、触れたことがない価値観や考え方が存在する。それに気づかせてくれるのが新聞でした。高校生になった時には、新聞記者になりたいと考えていました。
高校卒業後は、マスコミに強い大学で社会学を学びました。できれば記者として海外に行きたいと思ったので、英語研究部にも入りました。
私にとって、記者の仕事は「見えない部分を伝えること」だと考えていました。現場に自分が行って、その場で見たことを言葉にして伝えていくこと。特に、難民問題などを伝える記者になりたいと思っていましたね。生まれながらにして過酷なところ、マイナスのところからスタートするような人たちの力になりたいと思ったんです。
それで、長期休みを利用して海外の難民キャンプなどに足を運びました。すると、現地では予想外の光景が目に入りました。みんな意外と楽しそうに暮らしているし、夢を語っているんですよね。多くの人がイメージしている「貧困」とか「悲壮」とは違うんです。
次第に、「支援してあげる」というのが、おこがましい気持ちだと分かってきました。勝手なイメージを抱くのではなく、そこにいる人に寄り添い、リアルな暮らしや営みを伝えたいと思いましたね。
テレビなど他のメディアと比べて新聞がいいと思った理由は、言葉として残せることです。歴史を残しながら伝えられるのが新聞だと思っていました。
全ての仕事が経験になる
新聞社への就職活動は苦戦しましたが、最終的に中部エリアの新聞社に採用されました。ところが、配属されたのは取材に行く部署ではありませんでした。私の仕事は、新聞の見出しを考えたり、記事をレイアウトすることでした。
すごく嫌で、一刻も早く取材をする部署に早く異動したいと思いましたね。いい評価を受けたら希望の部署に行けると思い、仕事は真面目に取り組みました。実際、記事に見出しをつける仕事は面白かったですしね。今後自分が記事を書く上で、勉強になると思いました。
1年後、福井県に異動になり、警察に取材することになりました。いわゆる事件報道で、何か事件が起きれば現場に行ったり、被害者に話を聞いたり、裁判を傍聴したりしました。他にも、一般的な暮らしを取材する街ネタのようなものもやりました。
事件報道は、各社必死に情報を集めます。捜査の進展がある度に、他紙より先んじて報道するため、どんどん加熱します。まるでゲームのような状態ですが、それが読者のためであり、会社のためになると思っていました。
全ての経験が、積み重ね。自分が本当に書きたい記事を書く時に役立つと考えていました。事件の被害者など、喋りたがらない人から話を引き出すことも、町のイベントを取材することも、全ては経験になると。
3年ほど福井で警察取材を行った後は、東京本社に異動しました。元いた中部エリアでは、地域で一番強い新聞だったので、新聞としての色が決まりきっていて、あまり自由な記事は書けません。東京本社の方が自由な切り口で記事を書けそうで、面白いと思ったんです。
関東に転勤になり、埼玉県北部の羽生市の通信部に配属されました。一人の事務所で、普通の民家に会社の看板が付けられているような場所でした。
埼玉に来た週末、東日本大震災が起きました。私は、近くで液状化した町を取材することになりました。新築の家が立ち並ぶエリア一帯が液状化していました。最初は住民の方にいい顔されなかったんですけど、私が書いた記事が元で、色々な媒体が取材に来るようになって問題が明るみになり、結果的には住民の方たちにも感謝していただけました。
避難民の暮らしのリアルを伝える仕事
埼玉で一番力を入れたのは、震災で埼玉に避難してきた、福島県双葉町の方たちの取材でした。近くの廃校に、町ごと避難してきたんです。近くには他の新聞社がなかったので、私がこの人たちのことを、ちゃんと伝えたいって思いました。
記者になる前から思っていた、人のリアルな現状を伝える仕事です。東北にはたくさんのメディアが取材をしていましたが、避難してきた人の情報はやっぱり少なくて。それは私が伝えたいと思いました。
週末返上で、毎日話を聞きました。故郷を離れて全然知らない土地で暮らすこと。日常を失い、故郷を失うつらさとは、どんなつらさなのか。ただ住んでいた場所に帰れないということではなくて、被災者の方が震災で失ったものは何だったのか。少しずつ描くことで、読者の方に被災者の方のことを自分ごととして感じてもらいたいと考えていました。
世の中には、被災者の方に対して差別的な行いをする人も少なくはありませんでした。そういう人に、被災者の日常や感情を伝えるんです。
例えば、地域の人は避難中に夏の盆踊り大会を高校の中でやったんですけど、その時に住民がこぼした「ああ、またできてよかったな」という一言を書くだけで、震災によって「日常がなくなってしまったこと」を、読者に感じてもらえると思うんです。ちゃんと地域の人に寄り添った仕事をしたいと思いました。
取材の中では、田舎がいかに良かったかとか、お米がすごい美味しかったとか、近所の人が好きとか、故郷が大好きなんだなと思う話がたくさん出てきました。そういうことを伝える仕事を一生やりたいと思いました。
震災から1年経っても、避難所で暮らす被災者はたくさんいましたが、そこにはコミュニティができて、お互い励まし合うようなポジティブな空気も生まれていました。そういう原稿は、新聞社として書かせてはもらえませんでした。過酷な場所なんだから、過酷なことを書けと言われます。その方が現状を知らない読者には興味を持ってもらいやすいかもしれませんが、いつか、本当の日常も書きたいと思っていましたね。
もちろん、書くのは綺麗事だけではありません。町として機能していないことや、この避難が本当に正しかったのか検証の必要があることなど、批判的なことも書きました。それでも、記事を書き続けることが、双葉町の人たちが存在することを社会に証明することになると考えていました。
双葉町の人たちを取材する中で、「故郷」ってなんだろうって、すごくたくさん考えました。一つ町が失われるって、単純に地図からなくなるだけではなくて、それによってすごくつらい思いをしたり、心に大きな穴が空くようなこと。そう考えたら、町、故郷って絶対に残した方がいいもの。歴史とかも、残すに越したことはないものなんです。地域の人に寄り添って、故郷を残すような仕事を一生やりたいと思いました。
仕事と人生を一致させて生きたい
羽生で働いている時は、人生と仕事が完全に一致している状態でした。ところが、1年半ほどで異動になり、さいたま市で警察取材をすることになりました。
本音を言えば、双葉町の人の取材を続けたかったんですけど、後任記者もいたので難しい状況でした。新しい仕事をステップにして、本社の社会部などに所属して、震災のことを深く取材できるようになろうと考えました。
次の異動では、念願の本社に配属されました。しかし、担当は芸能部。映画やテレビを追いかける仕事でした。やりたい仕事ではありませんが、次に進むためのステップだと思い割り切ろうと思いました。
でも、気持ちが離れちゃったんです。本社では、隣で社会部の人たちの仕事を見れるのですが、たとえ社会部に入っても、会社の決めたことがすごく強くて、自分がやりたいことはできないんだろうなと感じました。上から言われたことを書くだけになってしまいそうだったんです。
また、芸能部での仕事は、変なところで神経を使うんですよね。取材できわどい記事を書くと、その度に、芸能事務所からクレームの連絡がきて。神経をすり減らすところが違うなって思いました。
異動も多くて、自分が本当にやりたい、人に寄り添う仕事ができません。会社なので当然だと思うのですが、私の人生をそれには賭けたくないと思ったんです。私が生きがいを感じるのは、仕事と人生が一致しているとき。そういう場所を見つけたいと思いました。
そんな思いを、同じ新聞社で働いていた夫に話すと、賛成されて、夫も仕事をやめたいと言ってきたんです。それじゃあ二人でどこかの地域に移り住んで、地域のためになる仕事をしようということになって、移住先を検討し始めました。
新聞記者として地域に寄り添う仕事はできなかったので、別の形で探そうと思いましたね。「地域おこし協力隊」の制度を使うと決めて、移住先を探しました。
双葉町でも募集があったんですが、原発問題で揺れる地域に行くほどの覚悟はありませんでした。ボランティアに行くわけではないので、無理して住んでもその地域のためにはならない。自分が心から楽しみながら暮らせる場所に行こうと考えました。
一生の新婚旅行にしよう
いくつかの地域を探す中で、長崎県の離島、新上五島でちょうど二つの求人が出ているのを知りました。私は聞いたことがない場所でしたが、釣り好きな夫に言わせると、釣りの聖地のような場所だとか。世界遺産に登録されそうで、その啓発をする仕事というところにも惹かれて、二人で仕事を休み、面接を受けに来ました。
結婚して以来、旅行をする機会なんてなかったので、新婚旅行のような気分でしたね。6月でしたが、雲の隙間から晴れ間が覗いているいい気候で、海もめっちゃ穏やかでした。
大曽教会という有名な教会を見にいこうとして歩いていたら、対岸から豪華客船が出向するのが見えました。穏やかな海を、船がブーって言いながら通り、島の人たちが大漁旗を降って見送りしていました。そのまま歩いて教会までつくと、ちょうどミサの鐘が鳴って、じいちゃんとか子どもたちが教会に歩いてきて。すごい穏やかだなって思ったんです。
私たちは、堤防に座って足をぶらぶらさせながら、景色をずっと見ていました。こんな日常ってあるんやなって思いました。それまでずっとせかせかしていましたし、二人でボーっとしたことなんてありませんでしたから。
その穏やかな暮らしも印象的でしたし、面接で話した町長もすごく熱い人だったんですよね。一緒にこの町を元気にするため、ぜひ来てほしいと言われました。他の島では、来ても来なくてもどっちでも良いですよ、といった感じで言われることが多かったので、せっかくだから求められる場所に行きたいと思いましたね。
でも、正直に言うと、本当に新聞社を辞めるのかは悩んでいました。収入の不安もありますし、子どもの頃からの夢を本当に諦めていいのか。ずっと悩んでいました。
それでも、夫から「一生の新婚旅行にしよう」と言われて、吹っ切れました。悩んでも仕方ないって分かったんです。
お金はなくてもあっても悩むもの。3年間という時間を、自分の中で違和感を持ちながら過ごすよりも、本気で頑張って、自分のやりたい仕事の基盤を作れたほうがいい。一生新婚旅行をするくらいの、ゆるい感じで考えればいいやって思えたんです。
島の日常をありのままに伝えたい
現在は、新上五島町の地域おこし協力隊として、主に情報発信の役割を担っています。町のイベントを発信したり、物産展などに出たり、会報誌を作ったりしています。
島に移住した当初、自分たちができることが何か具体的にはわからなかったので、まずはこれまでの経験を生かして、取材や情報発信を始めました。2年目になる頃、情報を絞ろうと思い、特産品である「五島うどん」にフォーカス。29ある製麺所の内、手打ちをしている5うの製麺所に注目して、その風景やストーリーを伝えることにしました。
五島うどんは小麦粉と椿油と塩と水でできるんですが、小麦だけは五島産を使っているところはありませんでした。そこで、新上五島で小麦を作り、それを使った五島うどんを作る「ムギ部」というプロジェクトを立ち上げました。
そうやって色々やってきたんですが、自分の軸が定まり切っていない感覚はありました。うどんにしても、「あなたが本当に伝えたいのは、うどんなの?」と言われて、やっぱり違和感があるんです。
それで何をやりたかったのか改めて考えた時、私がやりたいのは、故郷を残すことなんだと、改めて感じました。言葉だけじゃない、暮らしや日常を繋いでいくこと。
そのためには、ありのままの新上五島を伝えたらいいと考えています。新上五島って、私の感覚では、五島列島の中で中途半端で、ゆるいんですよね。
例えば、五島市はおしゃれで活気がある感じを、小値賀島はスローライフをしっかりアピールしているんですが、新上五島はその中間というか、ほどほど便利でほどほど田舎、五島市ほどおしゃれでもない。
でも、それがいいところだと思うんです。島に来たばかりの時は、もっとおしゃれにしなきゃとか思っていましたが、飾っても仕方ない。このゆるさを感じてもらうことにこそ、価値があると思うんです。
新上五島って旅行で来ると、結構バタバタなんですよね。世界遺産の教会巡りをして、五島うどんや美味しいものを食べて帰るって、結構忙しい。そうではなくて、私たちが初めてこの島に来たときのように、堤防の上でボーっとするような、そんな日常を体感してもらえるような形の観光を提供したい。そこに価値があるって私は思います。
例えば、朝日を見ながら散歩しようとか、夕方は綺麗な教会まで歩こうよとか、定置網船に乗ってみようとか、外でバーベキューしようとか。島の日常を楽しめる場所を作りたいと思ってるんです。
今は、そういう体験を提供できるようなゲストハウスを準備中です。ゲストハウスと言いつつ、交流やイベントをメインにして、島内外の人にとって「ここに来たらいつも面白いことをやっている」という場所にしたいですね。さらに、その日常を伝えるために媒体も作って、書く仕事もしていこうと考えています。
まだ形ができていないので、わからないですけど、そうやって日常を繋げていくことが、故郷を残すことに繋がるんじゃないかなと考えています。
新上五島に来た特は、3年間はお試しのつもりでしたが、もうこの場所で暮らし続けると決めました。せっかく来たんだし、当事者になりたい。3年間しかいないんだったら、これまでと変わりません。地域の人として、みんなに寄り添いながら、地域のためになる仕事をしていきたいです。
この記事は「another life. 国境離島の暮らしCH」より転載しています。